乾隆帝の時代 2013 8 4

 中国は、清帝国の乾隆帝の時代、唯一の超大国だったのです。
10回に及んだ外征の結果、清の版図(領土)は、最大規模に広がったのです。
 乾隆帝の時代が、清の絶頂期であると同時に、
世界においても、唯一の超大国だった時代です。
 しかし、清帝国の最後が、どうなったかは、
誰でも知っているでしょう。
 欧州各国は、次々と産業革命の時代を迎え、
多くの国が「欧州の列強」と呼ばれるようになったのです。
 歴史に「if」はありません。
しかし、乾隆帝の時代に、版図の拡大ではなく、
産業革命を目指していたら、
全く違う未来が中国に訪れていたでしょう。
 産業革命とは、ウィキペディアによれば、
工場制機械工業の導入による産業の変革と、
それに伴う社会構造の変革のことであるとあります。

アヘン戦争 Opium War 2004 4 17
 1840年から始まった「アヘン戦争」の歴史的背景を点検しましょう。
これは、イギリスと中国(清)の貿易問題が、原因です。
 当時、イギリスは、中国の茶を輸入し、
その代金を銀で支払っていました。
 しかし、茶の輸入量が増加すると、
銀による支払いも増加し、イギリスは苦しい立場となりました。
 そこで、イギリスは、インドで、アヘンを製造させ、
そのアヘンを茶の購入代金としたのです。
つまり、「銀での支払い」を「アヘンでの支払い」に変えたのです。
 これにより、中国社会は、アヘン吸飲というものが、
社会全体に広がり、大きな社会問題となりました。
当時の中国政府は、アヘンを禁止しました。
 しかし、当時のイギリスにとっては、
アヘンが、重要な「貿易通貨」となっていましたので、
アヘン禁止は、大きな痛手だったのです。
 こうして、これがアヘン戦争へと発展していくのです。
この戦争は、「自由貿易の実現」という大義名分がありましたが、
現実は、アヘンという麻薬ビジネスが生み出す、
巨額の利益を確保するための戦争だったのです。
 そのため、この戦争は、イギリス国内では「不正義の戦争」と呼ばれました。
イギリス国内でも、こうした戦争に対して、強い反対論があったのです。
しかし、資本家や大商人の強い意向により、この戦争は断行されたのです。
 アヘン戦争で負けた中国は、
外国勢力への抵抗と、伝統社会からの脱皮という苦難の道を歩くことになり、
あまりに大きな「痛み」となりましたが、
これが、中国近代化の出発点にもなりました。


































































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